情報誌 ISO NETWORK Vol.21

[巻頭対談]世界遺産の環境保全にも活用されているISO 14001 上智大学長 石澤良昭氏/一般財団法人日本品質保証機構 理事長 森本修

規格の国際性を生かし国際貢献に役立ててほしい

ユネスコの世界遺産に登録されているカンボジアのアンコール遺跡群。その管理を手掛けるアンコール地域遺跡保存整備機構(アプサラ機構)では、地域の環境保全および歴史景観の保存を図り、発展させる狙いから環境マネジメントシステムを取り入れて、ISO 14001の認証を取得している。ISO 14001の導入はアンコール地域に何をもたらしたのか――この遺跡に関する日本の第一人者である上智大学長の石澤 良昭氏をお招きして、ご自身のかかわりを交えてお聞きした。

アンコール遺跡研究に一生をかけると決意

森本

カンボジアのアンコール遺跡群を管理するアプサラ機構では2006年3月、アンコール地域の保存・発展を目的にISO 14001の認証を取得しました。この審査登録は、私たちJQAで手掛けた経緯があります。

石澤先生といえば、アンコール遺跡に関する第一人者です。改めて、アンコール遺跡とのかかわりを教えていただけますか。

石澤

きっかけは、学生時代にフランス語を専攻していました。当時、「フランス海外史」という科目があり、フランスが海外でどのような文化活動をやってきたかを学んでいました。その中に、アンコール遺跡が出てきたのです。フランスがこの遺跡に対して、保存修復の事業をやっていることを学びました。

卒業間近になると、恩師から、ベトナムに集中講義に出かけるので、帰りにアンコール遺跡に行くから同行しないか、とお誘いを受けました。大学4年の時ではありましたが、実家が北海道でホテルと商店を経営していたことから、就職のことは考えませんでした。気楽に海外旅行の気分で同行することを決めました。

アンコール遺跡群に行くと、ワットの大きさに興奮し、頭が混乱しました。遺跡から感じられる寺院建設に向けての当時の人たちのエネルギーとは何か、と疑問がわいてきました。その疑問を突き詰めようと、フランス人の遺跡顧問団の修復作業チームに加えてもらい、そのまま居残ることにしました。遺跡に感銘を受けたのが、かかわるようになった動機の一つです。

もう一つ、動機があります。フランス人の遺跡修復顧問団には独身の研究者が何人も参加していました。グロリエ先生も独身で夜11時、12時まで、研究に打ち込んでいました。その打ち込み方に、すごい迫力があり感心しておりました。そこで、グロリエ先生に質問に出向いた時、「なぜ、ご結婚されないのですか」と聞いたところ、大いに怒られ、こう答えられました。「アンコール王朝約550年の歴史を研究することと、結婚と、どちらに価値があるかは、私が決めること。私は、アンコール研究を選んだ。」この答えを聞いて、これこそ一生をかける仕事である、と私もためらわず研究への道を進むことを決めました。

B. Ph.グロリエ(GROSLIER)
フランス人、アンコール王朝研究の第一人者で「アンコール水利都市論」が有名。アンコール遺跡保存官(在職1956-1971)

   1931年プノンペン生まれ、Ecole de Louvre 卒、兵役後カンボジアへ戻り、アンコール遺跡の保存修復に従事。1970年、アンコール遺跡群が解放勢力に占拠されたが、それでも継続して保存修復を続行中に兵士の誤射により重傷を負い、フランスに帰国、その後遺症が原因で、1998年に逝去。

森本

その後、カンボジアは内戦の時代に入っていきます。アンコール遺跡群を研究対象とすることを決めてから、遺跡にどのようにかかわってきたのですか。

石澤

その後、恩師のグロリエ先生からずいぶん熱のこもった指導を受けました。しかし、私はアンコール遺跡に関しては素人だったことから、まず専門研究をする必要がありました。そのことを恩師に相談したところ、フランスへ行き基礎的な勉強をすることを勧められました。そこで、専門家を紹介してもらいフランスに渡って、フランスが約80年にわたってアンコール研究をやってきたその研究成果をひも解いたり、専門の講義に出席したりして、研究生活を始めました。しかし、やはり大学院を出て博士号を取らないと研究者の道は歩めない、ということがわかってきました。

カンボジア各地の遺跡調査にも出かけました。私はグロリエ先生から言われて、カンボジア人の作業グループをまとめるコーディネーター役を務めていました。そのうち、フランス人研究者との食事中の会話などから、彼らは中国人が約1000年も前に漢文で書き記したカンボジアに関する史料が読めないことを知りました。私は日本史や漢文は大学で習っていたので、漢文史料をフランス語に訳して差し上げました。

1970年当時、カンボジアはすでに内戦に突入していました。ベトナム戦争では米軍の北爆が始まっていた時期です。カンボジアの政治は揺れに揺れて、中国を後ろ盾にポル・ポト政権が誕生しましたが、その後、粛清を恐れてベトナムに逃げ込んでいた元ポル・ポト軍のヘン・サムリン将軍が、ベトナム軍とともに首都・プノンペンを陥落し、1979年1月10日に新政府を樹立しました。

そのころ、内戦のさなかで生き残った友人から手紙をもらいました。アンコール遺跡が倒壊し、手がつけられないほど破壊されている、どうか助けてほしいという手紙でした。ポル・ポト政権下の弾圧で生き残った遺跡保存官は3人だけであることも伝えてきました。

西側諸国からの専門家としても入国するのは難しい時期でしたが、緊急事態であるので無理やりにカンボジアに入りました。そして、遺跡の破壊状況を調査し、ユネスコとカンボジア政府に報告書を出しました。

アンコール地域の環境保全のためISO 14001を導入

森本

アンコール遺跡群は1992年、ユネスコの世界遺産に登録されます。登録申請にあたっては、石澤先生も関与されたマスタープランがまとめられています。そこでは、遺跡を一体のものとして保護する必要があることを指摘し、遺跡の調査、保存、管理を一元的に手掛ける組織が必要と提言されています。この組織はその後、アプサラ機構の設立という形で実を結びますが、このマスタープランのコンセプトは、どこにあったのですか。

石澤

ユネスコに登録申請するにあたって、遺跡の現状報告にはたくさんのデータと図面をつけて申請する必要があります。1980年以降日本人の遺跡専門家の先生方にカンボジアに来てもらい、6回の現況調査を実施して、膨大なデータをまとめておりましたので、それを申請資料として使ってもらいました。

マスタープランで掲げたコンセプトは、「文化」「人間」「自然」の3つを大事にする、ということです。「文化」は遺跡、「人間」はその近くに住む村人、「自然」はそれらを包み込む環境を意味しています。

森本

石澤氏

1995年にはアプサラ機構が設立されます。これはカンボジアのクメール語でアプサラは「天女」という意味だそうですね。正式名称の 「アンコール地域遺跡保存整備機構」(Autorite pour la Protection du Site et l'Amenagement de la Region d'Angkor/Siem Reap)の頭文字を取ってAPSARAと呼んでいます。命名に関して、なにか裏話はありますか。

石澤

この名称は、当時の担当大臣が考え出したものです。組織の略称で「夢と未来」を語れるものにしよう、という狙いです。カンボジア人は、アンコール遺跡への愛着心にあふれ、身体からにじみ出るような美的感性を持っております。

森本

基本コンセプトの要素である「文化」「人間」「自然」のうち、「自然」つまり環境の保全に関しては、当初は手つかずだった、と聞いています。一方、観光客が増えるにつれて、環境問題が深刻になってきました。そうした状況の中で、アプサラ機構はISO 14001の認証を受けて、アンコール地域の環境保全に取り組むことを決めています。この過程では先生の働き掛けがあったと聞いていますが。

石澤

内戦の時代を終え、平和になると、多くの観光客が訪れるようになって、ホテルが次々に建設されるようになりましたが、インフラの整備水準はどれも内戦以前のものばかりでした。水は汲み上げ放題、下水は垂れ流し、ごみはホテルの裏に山積み、という状況でした。これは何とかしなくてはならないと思いまし た。

そこで、アプサラ機構に対して「環境マネジメントシステム(ISO 14001)」の導入を提案して、それが受け入れられることになったのです。

ISOの導入が環境保全の自主的取り組みを促す

森本

アプサラ機構のISO 14001に関しては2006年3月、JQAで審査登録をさせていただきました。09年3月には登録を更新し、現在5年目に入っています。

この間の登録更新、定期審査において、アプサラ機構のISO 14001は、うまく運用されていると評価されています。私自身アンコール遺跡を訪れた時、環境は周辺地域を含めてきれいに整備されているという印象を受けました。

先生はISO 14001の導入の成果をどのように評価されていますか。

石澤

認証を取得できた前提には、例えば道端で物を売っているおばさんでもわかるように、JQAがISO 14001のたくさんのテキストをカンボジア語に翻訳した、という貢献があります。翻訳版を読むと、なるほど、なるほど、とよくわかります。この翻訳版の作成は本当に大きな貢献だったと思います。

アンコール遺跡はこのままでは「ごみの中の遺跡」といっていいほど悪い環境だっただけに、遺跡の修復・保存を本当に実現できるのかという不安も当初はありました。それでも、JQAはISO 14001に関して専門家を派遣し、現地でセミナー、授業、ワーク・ショップを頻繁に開き、ISOの目的・趣旨や詳細な実行計画が示されました。専門研修を受けたアプサラ機構の職員はそれを自分の知識として吸収するようになっていきました。そして、機構の職員は得られた知識を売店のおばさんたちにも説明していきました。すると、おばさんたちはビニール袋が散らばっていた場所を、「きれいにしましょう」と、清掃するようになっていきました。

そうした何とかしたいという気持ちが地域の一人ひとりに伝わっていく中で、「やれば、できるかもしれない」という自信が出てきたようです。私も「カンボジア人、いつになくやる気を出しているな」と感心したほどです。

さらに、ごみ処理をどうするか、大気汚染をどうするか、水質汚濁をどうするか、という問題意識がアプサラ機構の職員たちの中で高まって、それを検討する担当部局が立ち上がったりもしました。フン・セン首相も、カンボジア語に翻訳されたISOのテキストを読んで、「そうかわかった、きれいにしないといけない」と、現場に指示を出しました。遺跡入場料をもらうからには遺跡を快適な環境で楽しく見ていただくのは当たり前、という考え方が次第に広まっていきました。

さまざまな態勢が整って環境を整備するには作業員を雇う必要が出てきます。ISO 14001の導入が、雇用のすそ野を広げています。周辺の村では一家を挙げてISO関係の仕事に就いている例も見られます。若者はガードマンとして就職しました。農業以外に安定収入を得る機会が生まれたことで、住居を直したり電気を引いて生活改善に取り組んだりすることができるようになりました。

カンボジア語に翻訳されたISO 14001規格と規格序文のPDCAを表した図

ISO 14001で国際貢献

森本

ISO 14001には、なぜ導入するのか、導入に向けて何が求められるのか、という目的意識が欠かせません。また、環境にどうかかわり合いがあるのか、環境保全にはどういう活動が必要なのか、こういう点を組織自身が考えることが大事だと思います。さらに、いま先生も話されたように、首相つまりトップマネジメントのコミットメントも重要です。

ところで、アプサラ機構では審査登録から5年を迎えました。この間、組織変更や人事異動で担当者が変わってきました。環境マネジメントシステムの運用を見すえて、必要な人材をどう確保するか、アプサラ機構自身がいま真剣に考えています。上智大学のアジア人材養成研究センターで人材育成に取り組まれている先生のご経験から、人材育成の要諦とは何か、何をやるべきか、という点に関して、アドバイスはありませんか。

石澤

ISO 14001の導入過程を現場で見ていて、カンボジア人も教えてもらえればできるという自信をつけたのではないか、と思います。

かつてアンコール遺跡の保存・修復を手掛けてきたフランス人からは、「カンボジア人にはできないから、自分たちがやっている。石澤、わかるか」と言われた記憶があります。しかし、カンボジア人でも、翻訳されたテキストを読んで、やってみたら、うまくできた。カンボジア人は自信と誇りを持つようになり、「やればできる」と、確信するようになりました。海外から帰国した若者の中に、アプサラ機構に就職をしたいという希望者も出てくるようになりました。

アプサラ機構の中には、「俺たちも一人前の地球市民だ」という担当者もいます。「虐殺、地雷、難民、貧困と暗いイメージが俺たちにはつきまとっていたけれども、遺跡の保存・修復や環境マネジメントシステムを学んだことで、希望が生まれた。アプサラ機構に一生勤めて、尽くしたい」と言い始めた若者もいます。こういう若者が現在の機構を引っ張っています。

カンボジア人が「やればできる」という誇りを持った証しとして、アンコール遺跡の入場チケットを挙げることができます。この中に「ISO 14001」と刷り込まれています。ISO 14001 の導入をきっかけに、勇気と希望と未来を考えるようになった――そのノウハウは、JQAが世界に貢献できる道具の一つとして考えていたISOであったと思います。世界遺産にISO 14001を導入した最初の事例として、もっと宣伝していいのではないでしょうか。

森本

私どもとしてもアプサラ機構をサポートできたのはISOの有効活用の事例としてうれしく思っています。今後は、自治体・学校関係者やホテル経営者など地域全体に対して、環境保全に向けた取り組みを大いにPRする必要があると考えています。

石澤

日本として、こうしたソフト系の貢献はハードのものに比べてそうないと思います。地域の環境保全という根本的な問題を、 ISO 4001の導入を通じて解決を図ったものとして、さらにそのノウハウを確立したものとして、アプサラ機構の事例とその成果を宣伝してほしいと思います。また、環境を中心に考えていこうというISO 14001のテキストを学校教育の教科書の中に取り入れてもらって、そこに書かれていることが広まっていくといいですね。そうすることで、カンボジアは世界でも類例がない環境保全と遺跡保存の大国になっています。中国にもインドにもアフリカ諸国にも、環境保全を図るべき遺跡はあります。これらの国々に対してISO 14001の導入をサポート・展開することで、JQAにはISOが本来持つ国際性を発揮してもらうように頑張ってほしいと思います。

森本

ISOをうまく活用するのに、組織の目的意識とトップマネジメントのコミットメントは欠かせません。うまく活用されている例を見ると、ISOを何のために導入しているのか、という明確な意識をトップマネジメントが持っています。私は、ISO活用の成功事例を認証機関としても世の中に発信していくことこそが、ISOマーケットの広がりにつながっていく、と認識しています。アプサラ機構の例もこうした観点から、成功のポイントは何かという点を含めて、もっとPRしていきたいと考えています。

今後ともアプサラ機構のマネジメントシステムがうまく、継続して運用されていくように、JQAとしてさまざまな角度からサポートしたいと思います。

石澤先生、本日はどうもありがとうございました。

アンコール遺跡では観
光客の増加によりゴミ
も増え、環境問題が深
刻化していた

ISO 14001導入による
環境保全の取り組みで、
美しい遺跡が復活した

シェムリアップ川の清

ISO 14001が表記され
た看板

ISO 14001が表記され
たチケット

上智大学アジア人材養
成研究センターでの講

アジア人材養成研究セ
ンターの研修所

1961年、上智大学外国語学部フランス語学科卒業。専門は東南アジア史、特にアンコール・ワット時代の碑刻文解読研究。

1982年より、上智大学教授。2005年、同大学学長就任。学生時代にアンコール遺跡群を訪れて以来、半世紀にわたりアンコール遺跡の保存・修復活動に力を注いできた。現在、同大学アジア人材養成研究センター所長、同大学アンコール遺跡国際調査団団長、文化遺産国際協力コンソーシアム会長を兼務。

石澤良昭(いしざわ よしあき)氏 石澤 良昭氏